2009.11.13

いのち

何億もの
何兆もの
微小な細胞が
懸命に
私たちを生かしている

billions of
trillions of
tiny cells
work passionately
to keep us alive

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2009.10.31

心の底力

Jokeijio13
浄慶寺の掲示板

思わず、「はい、わかりました」と言ってしまいそうだ。
人は他人と書いて「ひと」と読むところだろう。
五行歌風にすると、

苦難のとき
力になるのは
金でもなく
ひとでもなく
自分の心の底力だ

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2009.10.27

瞑想とアレクサンダー・テクニーク

ヴィパッサナー瞑想では、あまり姿勢について指導はしていない。坐禅の結跏趺坐のような姿勢をとる必要はない。らくな姿勢ですわり、できれば背骨をまっすぐに伸ばしておきなさい、というぐらいだ。あぐらをかいてお尻の下に5㎝ぐらいの座布団をかい、背中を伸ばして座る姿勢が、いちばん長時間すわれるので、みんなそうして座るようになる。正座では膝がもたないのだ。ただ注意しないと重力に負け、自然に頭が落ち、前かがみになり、背中が丸くなる。

Alex1_3わたしは最近、瞑想の姿勢にアレクサンダー・テクニークを応用している。これがなかなかいい。足を組まず前後に置き、あぐらの姿勢になり、お尻の下に座布団を二つ折りにしたものをかう。それから腰を前に押し出すようにして背骨を伸ばす。頭のてっぺんをさらに上に伸ばすようにして中心線を見つける。それにはからだを軽く前後左右に傾けてちょうどバランスがとれる位置を探せばいい。それから肩やあごの力を抜いて、呼吸を観察する瞑想にはいる。

雑念がわいたら少し強めの呼吸をして鼻の下に意識を戻せばいい。しかし、雑念に飲み込まれて、ずっと考えごとをしてしまうこともある。そんなとき、背中は重力に屈して丸くなり、首は前に垂れている。これを防ぐためにアレクサンダー・テクニークを使うのだ。アレクサンダー・テクニークを一言で要約すると、つぎのようになる。

いかなる動きであれ動作であれ、なにかをするときには、まず、頭全体をからだからひきはなすようにスッと持ち上げ、からだがその動きについていくようにする
      〔「アレクサンダー式姿勢術」、三天書房、サラ・バーカー著、p73/絶版〕

わたしは一時このアレクサンダー・テクニークに傾倒し、自分の部屋や治療室の壁に「上に伸びる」という標語を何枚も貼っていたことがある。頭を肩から離し、上に持ち上げるようにすると、背骨がそれについてゆく。すると筋肉の無駄な緊張がなくなり、からだが自由に動くようになるのである。姿勢がよくなると精神的にも明るく前向きになる。

Alex2_2瞑想のときも、この原理を使うのだ。いちおう瞑想の姿勢をとったら、頭を上に持ち上げていき、背中を伸ばす。そしてまっすぐになったことを確認してから、軽く肩やあごの力を抜く。頭が肩からほんのすこし浮くぐらいの姿勢を保つのだ。そのために背中の筋肉は少し緊張しているが、からだの重さが前後左右均等にかかっているので、体重はほとんど背骨だけで支えていることになり、無駄な緊張はない。

瞑想の姿勢にこのアレクサンダー・テクニークの原理を取り入れ、頭を持ち上げて背中を伸ばすようにして座ると、集中力が高まり、あまり雑念がわいてこなくなった。これを習慣化するには時間が必要だろうが、いい瞑想ができると思うとけっこう意識を保つことができる。以前より微細な感覚を感じられるようになった気がする。なによりも、1時間の瞑想があっという間に終わってしまう。

日本アレクサンダー・テクニーク協会

きょうの発見・関連記事(セミナー)

いかなる
動作をするときも
頭を上に持ち上げるようにすると
背骨がそれについてゆき
その動作がスムースになる

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2009.10.26

毎日の瞑想

Centerもう二カ月ぐらいになるだろうか、毎日朝晩1時間ずつ瞑想をしている。これはヴィパサナ瞑想の10日間コースをとったときに毎回指導されることだが、コースを終えてしばらくすると怠けてしまっていた。ところが、なんとなく座り始めたら、これもなんとなく調子がいいのである。京子も10日間コースを3度とっているので、二人で瞑想している。もちろん、別々に座ることも少なくない。(写真は京都の瞑想センター)

はじめにアナパナ瞑想をおこない、それからヴィパサナ瞑想に移る。アナパナは鼻を通る呼吸を観察する瞑想法である。空気は右の孔を通っているだろうか、左の孔を通っているだろうか。入ってくる空気は冷たく、出てゆく空気はなま温かい。入ってくる空気は鼻の奥に当たり、出てゆく空気は鼻の孔の出口あたりで感ずる。鼻の下では息が当たると同時に拍動を感じたりする。ときにはそこがムクムクしたり、モゾモゾしたり、ピクピクしたりする。最初は雑念がわくが、だんだん呼吸を意識し続けることができるようになる。集中力が高まってくるのだ。そうしたらヴィパサナ瞑想に移る。

ヴィパサナは「ありのままを見る」という意味だが、アナパナのように呼吸だけでなく、全身の感覚を追ってゆくのである。頭のてっぺんから始め、足の爪先まで意識をめぐらせてゆく。頭のてっぺんは、くすぐったかったり、痒かったり、拍動したりしている。何も感じないときは、その位置を確認して次に移る。頭の前、後ろ、横と感覚をみてゆく。ひたい、こめかみ、後頭部などの感覚を追う。耳や目、頬など両側にあるものは、同じ感覚なら左右同時に感じることができる。唇や口の中、舌や歯茎もよく感じ取ることができる。こうして、上肢、体幹、下肢と感覚を追い、足先までゆく。わたしは片道しか行けないことが多いが、少しスピードアップすれば往復あるいは二往復ぐらいできることもある。

うまく集中できると、1時間があっという間に過ぎてゆく。だが、雑念が多いときはこの1時間が恐ろしく長い。へたをすると、雑念だけで終わってしまうこともある。人間の心というものはそれだけ不安定で気まぐれなものなのである。そういうことを知るだけでも瞑想する価値はある。ヴィパサナ瞑想によって全身の感覚を追っていくということは、絶えず「いま」に居つづけるということである。

「いま」に居つづけて、どのようなことが起きても反応しないで、心を平静にしてやり過ごしていると、心の汚れが浄化されてゆく。心が澄んでくれば、ものを見通す力がつく、判断力や処理能力がます。したがって、ものごとが順調にゆくようになるのである。いまのところ、この瞑想が習慣になってきた。瞑想をすると「こだわり」が少なくなってくる。細かいことなど気にかけなくなる。テレビも新聞もどうでもよくなる。そのかわり、感覚が鋭敏になってゆく。ほんらい、いきものとはそういうものなのだろう。

いま
この瞬間に
居つづければ
怖いものなど
何一つない

いま
この瞬間に居つづけ
心を平静にしていれば
心はどんどん
浄化される

→日本ヴィパッサナー協会

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2009.10.08

自分のものって何

言葉も
思いも
はじめは借り物
自分のものって
何だろう

words
and thoughts
are borrowed at first
what is it
that is truely mine?

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2009.10.02

完全主義者

完全を
追うものは
永遠に
不完全に
苛まれる               苛まれる:さいなまれる

a perfectionist
will suffer
from
endless
imperfections

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2009.09.13

子供のときから瞑想

タイ人の女性が肩こりの治療に来ている。タイの人は何人か知っているが、みんな心が優しい。自分を後回しにしても、ひとのために尽くすようなタイプの人が多い。この方も仏教徒である。毎朝五時に起きて、ぬるま湯を1.5リットル飲み、そのあと45分瞑想をし、20分ヨガをしているそうだ。食事は玄米を食べているという。瞑想は子供のときからやっているというから、ブッダの教えが生きている。

瞑想はヴィパッサナーですか」と聞くと、「そうです」。「ゴエンカ師のヴィパッサナーですか」、「いいえ、ゴエンカ師は知っていますが、ゴエンカ師のヴィパッサナーではありません」。「仏典には44通りの修行法が書いてあり、そのひとつです。行きつくところはみな同じです」と、淡々と話す。長いあいだ瞑想をしてきた人には、独特の心の落着きがある。ゴエンカ師も、ヴィパッサナーを名乗る瞑想法は無数にあるようなことを言っていた。山の頂上に到る道は何本もあるのだ。

日本ヴィパッサナー協会

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2009.08.24

自分を磨く

Wan_3 
読売朝刊・読者投稿欄のカット

新聞の読者投稿欄のカットが目に入った。シャボン玉と遊ぶ子犬が、じつに可愛らしく描かれている。 わずかな線で犬の表情をたくみに表現している。こういう絵が描けたらいいなとつくづく思う。つぎに題字にも目が行った。丸く柔らかい、温かみにある文字である。なんと、それは榊莫山先生の書ではないか。力の抜けた、我のない、いい字だ。まったく惚れぼれしちゃう。

以前、京都の東寺で弘法大師直筆の般若心経の復刻版を買ったが、弘法大師・空海の書もみごとだった。書き慣れた筆遣い、強い意志が感じられる。どこのお寺だか忘れたが、聖徳太子の書も癖のない優しい字だった。絵も人なり、書も人なり、である。

Kukai
弘法大師・空海の書、般若心経の冒頭。

すること
なすことに
自分が現れる
自分を
磨くしかない

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2009.08.17

ヴィパッサナーの瞑想

Sng先日、youtubeを見ていたら、たまたまヴィパッサナー瞑想法の動画に出くわした。指導者ゴエンカ師のビデオもあれば、10日間コースの風景や体験者の感想などもある。なかでも国連の世界宗教者会議におけるゴエンカ師の演説はすばらしいものだった。体験者のビデオのなかに、「自分は一年間は朝晩一時間ずつの瞑想をつづけると決心した」という話があり、それに触発されて13日から朝晩、瞑想をすることにした。

→ゴエンカ師の演説(英語)

パニック障害をわずらったりして体調があまりよくなかったので、ずいぶん長いあいだ瞑想をしていなかったが、やってみると案外できるものだ。おもにアナパナという瞑想法で、鼻の孔を出入りする空気に意識を集中する。眠くなったり雑念がわいたら、ほんの少し強めの呼吸をして意識を鼻の下に戻すようにする。調子のいいときは、これにヴィパサナ瞑想を加える。ヴィパサナは、からだの感覚を感じ取ってゆく瞑想で、頭のてっぺんから足の先までの皮膚を直径5㎝ぐらいの範囲で感じ取ってゆく。あまり集中できないときは、頭全体、顔全体、からだの前、後などと、大きなブロックごとに感覚を感じていってもいい。

基本的には、アナパナで集中力を高め、その研ぎ澄まされた感覚でからだの感覚を見つめていくのである。皮膚が一通りすんだら、からだの内部の感覚も追ってゆく。心臓や肺は動いているので感覚をとらえやすい。あるとき、全身の感覚を一度に感じとれる瞬間がくる。そういうものに執着しないで、ひたすら座り続けると、少しずつ心の汚れが取れてゆくというのである。事実、朝晩一時間ずつの瞑想でも、なんとなく体調がよくなるし、ものごとが順調に進んでゆく感じがする。京子も座っている。いや、むしろ彼女のほうが熱心だ。

Pagoda
ヴィパッサナー瞑想センター(インド)

ヴィパッサナー瞑想法に興味がある方は、次を見てほしい。

→日本ヴィパッサナー瞑想協会ホームページ

→『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』

→ヴィパッサナー瞑想体験記(左のメニューからヴィパッサナー瞑想法へ)

いま
ここに
居つづけ
平静であれば
心は浄化される

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2009.07.01

おくりびと

このあいだの日曜日、ラジオ文化講演会で「いのちのバトンタッチ ~映画「おくりびと」の世界~」という話を聞いた。アカデミー外国映画賞をとった映画「おくりびと」の原作者である青木新門氏の話だ。本木雅弘くんから電話があって、青木氏の著書『納棺夫日記』の一文を自分の本に引用したいと言ってきたこと。しばらくして、それを映画化したいと言ってきたこと。それからシナリオが来て、試写会を見て云々。

Okuribito1

映画「おくりびと」はオスカーをとったこともあるが、その内容がたいそう評判がいいので見たい見たいと思っていたが、なかなかその機会がなかった。きのうインターネットで調べたら、新宿ピカデリーで上演していることが分かり、きょう京子と観てきた。水曜日はレディーズデーだし毎月一日は映画の日だから混んでいるだろうと予想していたが、10:30の一回目ということもあって、観客は15人ぐらいしかいなかった。

実にいい映画だった。それはそれは見ごたえがあった。雄大な山形の自然をふんだんに盛り込みながら、納棺師を通して生と死の問題を淡々と描いていくのがいい。バックを流れるチェロの音が重く、しかし柔らかく響いていた。山崎努と本木雅弘の納棺の所作の美しさといったらない。死者を丁重にあつかうと、遺族もいい別れができるようだ。重すぎる題材を、余貴美子のけだるい演技や、や広末涼子の妙な軽さが救っていた。これは、とにかく必見の映画である。すこし遅れてしまったが、本当にいい映画を見せてもらったと思う。これからゆっくり回想するとしよう。

映画「おくりびと」
納棺師の事務所
一階は柩が並び
上階は植物がいっぱい
花、花、花

新宿ピカデリー

新宿ピカデリーは、むかしは松竹ピカデリーと呼んでいたと思うのだが、紀伊国屋書店旧館の裏手にある。久しぶりに行ったそのビルはきれいに建てかえられていた。外壁は光沢のある白いタイルのような感じである。このビルは11階建てで、いわゆる、シネマ・コンプレックスになっており、上映ホールが10個もある。2階がロビーになっていて、そこですべてのチケットが手に入る。となりのカウンターは飲食物を売っている。音響も防音もしっかりしているし、椅子もゆったりしていて、リピートしたくなる。

Eiga1

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2009.06.29

月に隈なきを

昨夜、9時半頃の月の写真を撮った。梅雨の月は雲に隠れることが多い。しかし、雨の夜に月を想像したり、雲に見え隠れする月を見るのもまた乙である。こんなことを書くと、『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」などという文章を思い出す。

Mooncloud_3

徒然草137段の最初の部分を引用してみよう。

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

現代語訳(私訳)

さくらの花は満開の時だけを、月は影のない満月だけを楽しめばいいというものだろうか。雨の夜、雲の向こうに浮かぶ月を恋しく思ったり、カーテンを閉め切って春の終わりを見届けることができなかったとしても、また、ほんわかと優しい気持ちになるものだ。蕾がこぼれ落ちそうなさくらの枝や、花びらが散り敷いた庭だって見所は多い。短歌の添え書きに「お花見に行ったのですが、すでに散っていまして」とか、「急用ができて花見に行けなくて」などと書いてあるからといって、「満開のさくらの下で詠みました」と書いてある歌に劣るといえるだろうか? 花が散り、月が欠けていくのを切ない気持ちで見つめるのは自然な感情だ。この気持ちを理解できない人が、「この枝も、あの枝も、さくらが散ってしまった。もう花見など出来ない」などと無粋なことを言う。

満月もいいが
半月も三日月も
味わいがある
雲間に覗く月なども
なお趣がある

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2009.05.25

ロミオとジュリエット

ラジオで、小田島雄志先生の「シェイクスピアより愛をこめて」という講演を聞いた。先生は、早口で少し口ごもる、しかし親しみのある独特の話しぶりで、シェイクスピアの作品の魅力について語っていた。シェイクスピアは難しくない。当時の一般大衆が見て楽しめる娯楽的な芝居なのだという。みずからをシェイクスピアのセールスマンと呼んで、はばからない。

有名な台詞(せりふ)について解説していたが、もっとも有名なのは「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンだろう。ロミオが隠れているのを知らずに、ジュリエットがバルコニーに出てきてこんな台詞を述べる。「おお、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの」と。ジュリエットの台詞は16行あって、そのなかで11回もロミオの名前を呼ぶのだそうだ。

わたしはジュリエットが悶々としてただ「あなたはどうしてロミオなの」と言っているのだと、軽く考えていた。ところが小田島先生によると、ジュリエットのキャプレット家とロミオのモンタギュー家は敵対関係にあるから、その名前が二人の恋の障害になるというのである。だから、名前がなければ二人はなんの障害もなく結ばれるのに、とジュリエットは嘆くわけだ。彼女は、名前と実体とは別のものであることに気がついたのである。バラはバラと呼ばなくても、そのままで美しい、というわけである。

わたしたちも名前に振り回されていることが少なくないように思う。会社や学校の名前、ブランド商品など、その本人を表すものではないものに翻弄されることがある。名前なんかより、その実体が重要なのだという指摘、これがこの台詞のカギであるというのである。そのほか、ハムレットの「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」などといった台詞についてもユニークな解釈をされていた。とにかく、シェイクスピアは思ったより身近な人間だったと思っていいらしい。そういえば、「恋に落ちたシェイクスピア」という映画でも、かなり軽い感じに描かれていた。「アマデウス」ではモーツアルトも音楽以外ではダメ人間だった。あんがい、そんなものかもしれない。

シェイクスピアは
近寄りがたい
存在だったが
どこにでもいる
愛すべき人らしい

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2009.05.16

天の思惑

Hebiichigomi
ヘビイチゴの実 (クローズアップ)

巨大隕石が
地球にぶつかる
という映画があった
ヘビイチゴのアップで
思い出した

宇宙から
地球を見ると
先進国は
夜でも明るいそうだ
なにかおかしい

ひとは
自然から
遠ざかり過ぎたよう
温暖化異変は
天の怒りか悲しみか

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2009.05.14

エドはるみの課外授業

録画しておいた「課外授業・ようこそ先輩」を見た。今回は、お笑い芸人のエドはるみだった。サブタイトルが「無我夢中ってグ~!」だから、見る前から楽しそうだ。生徒は母校の小学六年生。教室へ入ると、いきなり服を脱いで赤シャツと黒いスパッツ姿になり、例の「調子はどう~」という掛声とともに、グーッを連発して生徒たちを笑いの渦に巻き込んだ。

そして、黒板に「無我夢中」と書き、その面白さを伝えるというようなことを話した。「頭で考えるより、実際にやってみよう。そうすればいろいろな発見があるから」と言い、まずは生徒たちに雑巾がけをさせることになった。長さ120mもある廊下を休まず一気に拭いてゆくというのだ。最初にエドさんが手本を見せる。息も絶え絶えになんとかこなす。それから、生徒が一人ずつ雑巾がけをする。途中で膝をついてしまったり、止まるものもいたが、なんとか全員クリアする。やればできる、達成感がいいなどと、生徒からプラスの感想も聞かれた。

Edoharumi2

その日の宿題は、生徒の親から無我夢中になった体験を聴くこと。仕事に夢中だった、恋に夢中だった、子育てに夢中だった、など、ふだん聞けないようなことも両親から聞き出した。

さて、翌日は玉拾いのゲームだった。丸い円のなかに玉入れで使う赤い玉を100個ばらまき、1分間で何個入れることができるかというゲームだ。手近なものから拾って中央の篭に入れるもの、赤い玉を篭のまわりに集めてから入れるもの、いろいろだ。それでも6人だったかな、ぜんぶ篭に入れることに成功した。最後にエドさんが挑戦。大人であることもあるが、左手に篭を持ちながら、40秒ぐらいでぜんぶの玉を拾いあげてしまった。もちろん、これは競争でなく、自分との戦いを体験させたのだ。

一生懸命やること、無我夢中でやること、そこから新しい発見が生まれ、新しい自分が見つかる、そんなようなことを知ってもらいたかったのだ。文字通り、からだを張った授業である。最後に、エドはるみは自分の半生を語りながら涙を流していた。一緒に雑巾がけをし、一緒に玉入れをした生徒たちも大きく心を動かされたのが分かった。とにかく、考えるより行動に出ることの大切さはじゅうぶん伝わったのではないだろうか。

からだを張って
子供たちに
無我夢中を教えた
エドはるみは
無我夢中だった

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2009.05.05

神さま

神さま
神さまは本当に
おられるのですか
何度もたずねた
我が青春時代

これは『五行歌』三月号に投稿した私の作品の一つである。歌だけみると、いるかいないか分からない神に、いるかいないかを尋ねるというのは矛盾している。しかし、当時の私は神さまは存在すると思っていたが、確信がなかったのである。そこで、神さまがおられる証拠を見せてくださいと尋ねていたように思う。おととい届いた『五行歌』五月号の「作品評」の欄で、ある人が私の歌を取り上げて寸評を書いてくれた。それをここで引用する。

確かに、青春期には幾度となくこういう思いになった気がする。そして作者は他にも神について詠っておられ、それぞれ納得のいく作品だった。ただ神を詠うのは難しいし、神の字を使わずに神を表現したいというこだわりも私にはある。美しい、愛しい、そして驚き、喜び…人間が感動するもののすべてが神ではないかと思えている。

あまたある作品のなかで、私の五行歌に目をとめていただいたことが嬉しい。「神の字を使わずに神を表現したい」、という気持ちもよく分かる。私自身は、今では神の存在を確信している。ただ、それはキリスト教やイスラム教のような一神教ではないし、多神教でもない。やや多神教に近いかもしれないが、万物に神が宿っているという考えで、アニミズムといってもいいだろう。それも生物だけでなく、無生物にも、目に見えないものにも、神が宿り、その力が働いている。この宇宙を創造した力、万物を制御している無数の法則、細胞やDNAの構造や機能などをコントロールしているもの、それらすべてを神と呼んでいいと思っている。神ということばを使おうが使うまいが、そういう力が存在することは疑う余地がない。

きのう、大船植物園フラワーセンターでいろんな花を見てきたが、どの花も精緻をきわめ、色や香り、姿かたちも、可愛く、美しく、ユニークで、感動の連続だった。なにがそういうものを造っているのだろう。自然といえば自然だし、神といえば神である。いままで以上に、神を敬い、自然を愛し、わるいことをしないで生きて行きたい。

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2009.03.09

異文化との共生

NHK高校講座『地理』を録画して見ている。最新の情報が画像や動画で見られるし、わかりやすい解説がつくのがいい。今回は「異文化との共生」というタイトルで、平和の可能性を教えてくれた。

トルコという国は、国民の9割以上がイスラム教徒でありながら、はっきり政教分離の政策をとっている。これを「世俗主義」と呼び、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、それらの各宗派などが互いに仲良くやっている。政教分離をとっているため、イスラム教徒であっても個人的に宗教色を表に出すことは禁止され、女性もチャドルを巻いて顔を隠すことはしない。

Chiri401 Chiri405 Chiri4014

番組では、アンタキヤという1,000年以上つづく古い街が紹介された。シリアとの国境に近いところにある街だ。「あんた来や」と書けば、すぐ覚えられる。冗談はともかく、この街は異文化が非常にうまく共生している。イスラム教の最大の祭典「犠牲祭」のときには、キリスト教徒もお祝いに参加したり、またイスラム教徒がキリスト教徒の貧者に肉を贈ったりするそうだ。

トルコの宗務庁は政教分離を監視し、裁判所もこれをを堅持している。宗教間には多少の不満が出ることがあるが、互いにそれぞれの宗教を認めあっている。イスラム教自体、ほんらいは寛大な宗教なのだそうだ。いろいろな人のインタビューをとっていたが、最後の人が、「日本だって、異文化を受け入れて、うまく調和を保っているではないか」と言っていたのが印象的だった。

日本は八百万の神を崇め、多神教の国家といえるだろうが、たしかに、キリスト教、仏教、無神論者などが、平和的に共生している。日本人は宗教には少し節操がないくらい鷹揚で、結婚式は神前で、葬式はお寺で、そしてクリスマスやバレンタインなどもお祭り騒ぎをする。日本は閉鎖的な面もないことはないが、異文化に寛大であると言えるだろう。そのへんに、世界平和の可能性が見えてくるような気がする。

→NHK高校講座「地理」、異文化との共性

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2008.12.22

日本はいい国

きのうのラジオ「文化講演会」は、タレントのダニエル・カールさんの話だった。タイトルは「おらが愛した多摩川」だった。山形の最上川が母なる川で、多摩川は父なる川だという。17歳のとき初めて日本に来たが、そのときの驚きをいろいろ語って聞かせてくれた。豆腐は大理石に見えたし、トコロテンはミミズに見えた。かまぼこは消しゴムに見えたし、食べても消しゴムみたいだった、等々。

カリフォルニアの砂漠近くに住んでいたカールさんは、日本に川の多いことに驚いたそうだ。それから、水の美味しいこと。人情の厚いこと、等々。夏の蒸し暑さはかなわないが、それを除けば、日本ほど住みよいところはない、日本ほど安全な国はない。こんな国は世界中どこに行ってもない、という。だから、もっと自信を持ってほしい、誇りを持ってほしい、と話していた。

マスコミやテレビのワイドショーなどでは、たった一つの事件を取り上げて、日本はだめになった、日本人は自分勝手になった、などとセンセーショナルに騒ぎ立てる。そんなことはない。「わたしは28年も日本に住んでいるが、一度も泥棒に出合ったことがない。二度財布をなくしたことがあるが、翌日か翌々日には手元に戻った。こんな国はありませんよ」。

たまに起きる殺人事件を、マスコミが大々的に取り上げて、日本人全体が悪くなったように騒ぐ。それはおかしい。みなさん、もっと日本人として誇りを持ってください。自信を持ってください。日本はいい国なんですから。

カールさんの話はもっともだと思う。道で転んでも、市を訴えるアメリカ人。軍人の数より弁護士(法律屋)の数のほうが多い、訴訟社会アメリカ。なんでもひとのせいにしてしまう。離婚大国アメリカ。あれじゃあ、子供がかわいそうだ。日本もまだまだ駄目なところもあるが、それほど捨てたもんじゃない。ダニエルさんに言われるまでもなく、もっと自信を持って生きたい。

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2008.09.22

一日一絵

きのうと今朝のラジオ深夜便「こころの時代」は、野崎耕二さんの「一日一絵」という話だった。46歳のときに進行性肢体性筋ジストロフィーという難病にかかり、手足の力が入らなくなった。医者にこの病気の人は長生きできないと言われ、何かしなければと思いたって、一日ひとつ絵日記を描くことにしたのだそうだ。

Nozaki_2長続きさせるために、毎日ひとつ絵を描く、その日出遭ったものをその日のうちに仕上げる、水彩で描く、ということなどを決めたそうだ。それが26年続いて、現在なんと9000枚以上の絵がたまったという。二年分ずつ一冊の本にまとめ、20年分、すなわち10冊の画文集が出版されているそうだ。森繁久弥や吉永小百合なども推薦文を書いている。

進行性筋ジストロフィーの人が長生きしているのも不思議だが、毎日休まず絵を描き続けている野崎さんの執念のようなものにも畏れを感じる。星野富弘さんにしてもそうだが、ひとつのことをコツコツ続けていくと、その量が質に転じ、また奇跡のようなことが平気で起こるものらしい。忌まわしい病だが、悪いことばかりではない。その病気を受け入れて懸命に生きたから、全国に友達ができ、充実した人生を送れるようになった。いつも、この諺を引き合いにだすが「ふたつよいことまたないものよ」であり、「ふたつ悪いことまたないものよ」である。

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2008.07.26

Save the Tibetans!

Potala
ラサのポタラ宮殿

チベットは
天に近い
月よ星よ太陽よ
チベットを
救いたまえ

Tibet is utterly
closest to the heaven.
May Moon, Sun and stars in the sky,
save Tibetans
from their pains!

チベット問題
・人権がおろそかにされている。思想信条を理由に投獄されたり、刑務所で拷問されたり、まともな裁判なしに死刑にされたりしている。

・中国人(漢民族)の移民が多すぎる。政府が入植を奨励し、すでにチベット人は少数派になってしまった。もともと600万人しかいないため、民族としての存亡が危ぶまれている。

・チベット人にとって不利な社会。社会の上層部は中国人が支配。教育水準の低さや中国語の能力不足などで、チベット人は不利な扱いを受けている。

・信仰の自由がない。ダライ・ラマ法王を批判しない僧侶は寺院から追放される。中国政府が勝手に高僧を任命して、信仰を強制している。

・環境を破壊。乱獲、乱伐、乱開発でチベットの自然が破壊されている。核兵器を作り、核廃棄物の捨て場にしている疑いもある。

こういった状況に置かれても、ほとんどのチベット人たちはダライ・ラマ法王の教えを守り、非暴力を貫いている。2006年にはラサまで鉄道(青蔵鉄道)が通り、ますます多くの中国人が流れ込み、状況の悪化が加速している。

2006年には、ダライ・ラマ法王に会うためにヒマラヤ山脈を歩いて越えて亡命しようとするチベット人たちを中国軍が狙撃する模様を多くの登山者らが目撃。一部始終を撮影した映像が公開された。


中国軍がチベット人を射殺している!

受難と祈り―チベットを知るための夏

ルンタ・プロジェクト!

ルンタ・プロジェクトは、チベット亡命政府所在地である北インドのダラムサラにて展開している難民救済NGO。亡命チベット人たちが語るチベットの真実が圧巻。 

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2008.07.11

からだを感じる

Youga

こころを落ち着けて
自分のからだを
感じとってみよう
生かされていることが
理屈抜きに分かる

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2008.07.08

チベットの収容所

ここ数日、「チベットの強制労働収容所」というDVDの翻訳にかかりっきりだった。記録映画のナレーションだから、それほど量はないと聞いていたが、しゃべりが意外に速く、思っていたより時間をくった。

けっきょく全訳し、それを要約した文をつくった。すこし、その内容をここに載せてもいいだろう。できるだけ多くの人に知ってもらいた事実だから。翻訳はボランティアだが、この仕事を請けてよかったと思っている。

→ダライ・ラマ法王日本代表事務部

チベットの強制労働収容所

 1949年、中国はラサに軍隊を送り、チベットを侵略した。当時、ラサには刑務所が二つしかなかったが、現在、ラサは刑務所や留置場、強制収容所であふれている。そこに収容されている囚人の数は、全中国の囚人の数よりも多いという。

 1995年だけで39回の平和的デモ行進が行われ、230人が逮捕された。予言によって、ベンジョン・ラマの生まれ変わりであるダッシュ・リンボーという少年が次のダライラマになることに決まっていたが、中国軍はとつぜん彼の家にきて、6歳の少年を拉致したのだ。このときは刑務所に入れられたものは少なかった。チベット人はチベットの国旗を掲げ、国歌をうたい、手に手にダライ・ラマの写真をかかげ、平和的なデモ行進をした。新しいチベット政権が秘密裏に結成された。

しかし今では、ダライ・ラマを信奉したり、ダライ・ラマの写真を持っているだけで逮捕され、投獄される。「チベットに独立を! チベットに自由を!」と叫ぶだけで、厳しい弾圧を受ける。人権を要求するデモも禁止され、それを破ると、殴られ、蹴られ、逮捕され、厳罰にに処せられるのである。年齢は関係ない。3歳から12歳ぐらいまでの子供まで捕まり、大人たちと同様、弁護の機会もなく刑務所に送られる。記録によると、多くのチベット人が人生の最善の時期を刑務所や強制収容所で過ごすことになった。その結果、何千人、何万人ものチベット人が餓死した。こうした被害を免れた家はほとんどないといっていい。

刑務所は中国政府の刑罰の最前線である。囚人は一方的に書かれた罪状を認めなければ、それを認めるまで拷問にかけられる。かつて収容されていたチベット人の証言によると、拷問には34種類あったという。1986年の国連の拷問禁止条約に批准し、また中国の刑法でも拷問を禁止しておきながら、刑務所での暴力は日常茶飯事だった。銃の背中で殴る、汚物のなかにつける、宙吊りにする、犬のように引き回す、独房に縛り付ける、7000ボルトの電気ショック棒で口や膣を突く、などさまざまな拷問がおこなわれた。

 中国はまた、チベットの自然を破壊している。すでにチベットの森林の40パーセントが伐採されている。木材の運搬も囚人の仕事であった。3000人の政治犯のなかにはロザン・テンジンがおり、現在、木材運搬の仕事をさせられている。彼はユーロ・ダワ・ツリンとともに死刑判決を受けたが、中国に対する国際世論の批判が高まり、終身刑に減刑された。

過去47年の中国支配のあいだ、チベットの刑務所は巨大な墓場としても機能した。中国のチベット侵略で150万人のチベット人の命が奪われた。およそ173千人が強制労働収容所で死んだ。中国は長いあいだチベット人を痛めつけてきた。同時にチベット文化やチベット人の誇りを踏みにじってきた。チベット人の犠牲たるや、想像を絶する。苛酷な労働をしいられ、経済大国中国に無理やり貢献させられてきたのだ。

みなさん、考えてほしい。

自分の国を守ろうとして、逮捕され、拷問を受けるということを、

民族の宗教指導者を拉致されることを、

チベットに自由を、と叫んだだけで、20年以上も強制労働をさせられることを

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2008.07.01

みんな生きていればいい

録画しておいた「課外授業・ようこそ先輩」を見た。タイトルは、「みんな生きていればいい」だ。先生は東大助教授の福島智さんである。福島さんは3才から9才にかけて視力を失い、さらに18才までに聴力を失った。全盲ろうという重複障害者である。

Fukushima 1983年、都立大に入学し、盲ろう者として日本で初めて大学進学を果たした。大学では教育学を専攻し、卒業後、都立大助手、金沢大学助教授を経て、2001年、東京大学助教授となった。現在、東京大学先端科学技術センターにおいて、バリアフリー研究に力を注いでおり、2008年5月、博士号を取得している。

目が見えないということだけでも大変なのに、そのうえ耳が聞こえないとなると、自分と自分以外のものの接点は、触覚、嗅覚、味覚しかない。お母さんが指点字という方法を開発し、点字を打つ指を福島さんの指に重ねて打つようにした。それに慣れると、かなりの速度で話を伝えることができるようになった。福島さんは他の人とコミュニケーションがとれないのが一番つらかったという。

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小学生たちが耳にヘッドホンをつけ、さらにアイマスクをかけて、もう一人に先導されて飲み物を取りに行くシーンは感動的だった。目が見えないから思うように歩けない。耳が聞こえないから、言葉で注意しても伝わらない。先導する友達の手が離れたときの孤独感といったらない。

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全盲ろうの人は自殺を試みる人が少なくないそうだ。福島さんもどん底に陥ったが、「これは神が私にくれた苦悩なのだ。この苦悩を一生懸命乗り越えていこう」と決めたそうだ。そうしたら気がらくになったという。

最後に子供たちからの質問があった。「いちばん辛かったことは?」という質問には、「人間はひとりでは生きていけない。なのに、コミュニケーションが取れなかったことです」と答えた。「いちばん嬉しかったことは?」とい質問には、しばらく考えてから、「いま生きていることです」と言った。目頭にツンと来るものがあった。

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いちばん嬉しいことは何ですか
と小学生にたずねられ
いま生きていることです
と全盲ろうの東大助教授
生きていることは至福なのだ

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2008.05.27

人を動かす

これは、デール・カーネギーという人が書いた本のタイトルである。原題は ”How to Win Friends and Influence People” だから、直訳すると「友を得、ひとに影響を及ぼす方法」となる。これを『人を動かす』とやったのは、訳者か編集者か知らないが、快挙だったと思う。とにかく分かりやすいタイトルだ。

30年以上もまえに、この本を何度も読み返したことがある。当時、いやおそらく今でも、ビジネスマンの必読書になっているのではないだろうか。わたしはその目次を名刺大のカードに印刷してパウチして財布に入れて持ち歩いている。最近はほとんど見ることはなかったが、先日、ラジオ深夜便でデール・カーネギーの話が出たので、取り出してみた。こんなことが書いてある。

1 誠実な関心を寄せる。
2 笑顔を忘れない。
3 名前を覚える。(あいさつをする)
4 聞き手にまわる。
5 関心のありかを見抜く。
6 心からほめる。(悪口を言わない)
7 ありがとう、を言う。

・ひとはだれでも話しかけられたいと思っている。
・ひとはだれでも見つめられたいと思っている。
・ひとはだれでも自分に関心を持ってもらいたいと思っている。
・ひとはだれでも認めてもらいたいと思っている。
・ひとはだれでも大切にされたいと思っている。

人間は、たとえ自分がどんなに間違っていても決して自分が悪いとは思いたがらない。だから他人のあらさがしは何の役にも立たない。かえって反抗する。etc.

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2008.05.20

求めない

加島祥造さんの詩集『求めない』(小学館、1300円+税)を読んだ。読んだといっても、各ページに、3、4行の詩が書かれているだけだから、すぐ読み終えてしまう。たとえば、こんなぐあいだ。

求めない――
すると
簡素なくらしになる

求めない――
すると
いま持っているものが
いきいきしてくる

求めない――
すると
体ばかりか心も
ゆったりしてくる

加島さんの話は、以前「ラジオ深夜便・こころの時代」で聞いたことがある。そのときは『老子』の英訳についてだったが、この詩集にも老子の思想が流れている。

人間は何かを求めないでいる、ということはできない。しかし衣食住があるていど満たされたら、それ以上を求めるのはほどほどにしたほうがいい。求めてばかりいると自分を見失う。求めないでいると、自分の中心がわかり、ものごとに動じなくなる。心が豊かになる。そんな詩集である。足るを知るという、お釈迦様の教えにも通ずる。

下重暁子さんの『持たない暮らし』(中経文庫)も読んだが、こちらもシンプルライフ、スローライフを目指そうという内容だ。ものを持たないことの自由さを訴えている面では似ている。もっとも、下重さんは「いいものはとことん求める」などと言っているから、加島さんほど徹底してはいない。こちらのほうは、ちょっと立ち読みする程度でいいだろう。

こういう本が売れるのは、ものが豊かになり、生活が便利になってゆくのに、一向にしあわせを感じられない現代を象徴しているかのような気がする。求めるから失望し、求めるから裏切られ、求めるから苦しむ、ということが分かっていないのだ。

四国巡礼をした人がインタビューに答えていたのを思い出す。はじめはカメラや本やテントなど、いろんな物をリュックに詰めて背負って歩いていたが、重くてたまらないのでだんだん荷物を減らしてゆき、ついには必要最小限のものだけにした。そうしたら、からだも心も軽くなり、これが自由なんだと悟ることができた。そんなような話だった。

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2008.02.07

鬼の顔

Muku
ムクドリ

雨戸を開けると、また雪。と思ったが、この間ほどではない。道路の雪は溶けている。木々の雪も溶け始めている。それでも野鳥たちは餌探しに苦労しているに違いない。ムクドリ、ヒヨドリ、雀、キジバトなどが飛んでいる。

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長念寺の掲示板

野鳥がいるかと思って長念寺のほうを回って見たが、さっぱりだった。そのとき、ふと、お寺の掲示板に目が行く。「福願うこころの裏に鬼の顔」という一首が貼ってあった。幸福はだれもが願うところだが、人間というものはけっこう欲が深い。だから、笑顔の裏に鬼が潜んでいる可能性がある。そんな意味だろう。先日、豆まきをしたばかりなので、この言葉は胸をつく。これ以上の福など願わず、いまが最高と思って生きていこう。

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2007.12.28

正月飾り

けさは比較的あたたかかった。週末は天気が荒れるというので、第六天神の注連縄や、門松、自転車と自動車にお飾りをつけた。29日は苦しむの「く」がつくからだめ、31日は一夜飾りになるからだめ。そうなると、お飾りをつける日は28日と30日ぐらいしかないのである。車飾りをつけて通勤してきたが、お飾りを付けた車には一台も遇わなかった。もっとも最近は、正月になってもお飾りを付けた車は少ない。すべてに神様の力が働いているのに。ものが豊かになったぶん、無信心の人が増えているのだろう。

Dairoku

Kurumakazari
パッソに付けた正月飾り

ものが豊かになった
時代だなあと
つくづく思う
それでも幸福感が薄い
人間の欲が深いのだ

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2007.10.26

生きかた上手

日野原重明さんの『生きかた上手』を読んだ。平易な日本語で語りかけるように書いてあるのでとても読みやすかった。小見出しは五行歌になりやすいので、先生のお話の一部を五行歌風にならべてみよう。

習慣に
早くから配慮した者は
おそらく
人生の
実りも大きい

きりのない
願望が
あなたを
しあわせから
遠ざける

食事
運動
仕事
睡眠を見直し、
今日から改める

失うことを
恐れるより
与えることで
喜びは
生まれる

音楽には
病む人の
心とからだを
癒す
力がある

ありがとう
のことばで
人生を
しめくくりたい
ものだ

悲しみも、苦しみも
そのさなかはつらい
けれど後になって
その人生における
意味がわかる

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2007.09.11

不満と感謝

ごくおおざっぱに言って、不満の多い人は病気がちになり、不満の少ない人は健康でいられる、と言っていいと思う。なぜなら、不平不満の多い人は心もからだもどこか緊張ぎみになるからだ。不満のある人の顔を絵に描くとすれば、眉間にシワを寄せ、口をヘの字に曲げた顔になるだろう。眉間が緊張し、口元も何か言いたそうに緊張しているからだ。心配性の人なんかも同じようなことが言える。ぎゃくに、不平不満がなく感謝の心に満ちている人は、おおむね笑顔でにこにこしており、顔もどちらかというと緩んでいる。絵に描けば恵比須さまのような顔になるだろう。

医学的にみても、不満があると筋肉は緊張する。たとえば、トイレに行きたいのをじっと我慢していれば緊張して足踏みをしたくなるだろう。腹が減ってくれば、やはり緊張してイライラしてくる。逆に、トイレを済ましたあとはすっきりしてホッとする。腹いっぱい食べたときは満足して一休みしたくなる。緊張がほぐれるからだ。

精神的にも同じようなことが言える。腹が立ったり、怖い目にあったり、悲しい目にあったりすれば、からだが緊張する。思わず肩に力が入る。そういうことが続けば、痩せてくるかもしれない。ところが、不満がなければゆったりと構えていることができる。感謝の心でいっぱいの人の顔は、満ち足りて緊張がない。

筋肉が緊張すると血管が圧迫され、どうしても血行が悪くなる。血行が悪くなれば、酸素も栄養も不足しがちになるし、老廃物を排除する機能も落ちる。だから、緊張が続けば病気になりやすくなる。筋肉が緩んでいれば血管がひろがり、血行がよくなる。血行がよくなれば、新鮮な酸素や栄養がゆきわたり、老廃物も排除されやすくなる。

不満は緊張を生み、緊張は血行障害を起こし、病気になりやすくなる。
感謝は不満のない心だから、緊張がなくなり、血行がよくなり、健康になる。

このメカニズムを頭に入れて、できるだけものごとを良く考える癖をつけるといい。なんでも「ありがたい」「よかった」で暮らしてゆくとよい。たとえ悪いことに出くわしたとしても、「このぐらいで済んでよかった」「こんなことが永遠に続くわけじゃない」「ああ、いい勉強をさせてもらった」「人生にはいろんなことがあるな」ぐらいに考えたらいいのである。

ま、人生に不満はつきものだが、早く乗り越えて「感謝」のほうに心を切り替えたほうがいい。緊張ばかりでは疲れてしまうが、弛緩ばかりではダレてしまう。適度な緊張と弛緩のリズムをつくれば健康で幸せに暮らしてゆくことができるだろう。

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2007.07.30

すべて自分の問題

ある人のブログを読んでいたら、

「話すことの、 ひとつひとつがカチンとくるものの言い。 私の受け止め方が悪いのか。 世間の方は、どのように対処してるのだろう。 知りたくなる。聞きたくなる。ちなみに… うちの夫は、受け入れるしかない、と言うのだが」

という文章が載っていた。わたしも人間だからカチンと来ることがある。そこで、ちょっと考えてみた。そして、そのブログにこんなレスを書いてきた。ま、自分が自分に言い聞かせるようなつもりで。

ヴィパッサナー瞑想法では、きびしいけれど「すべて自分の受け取り方の問題」ということになります。

むかし京都の10日間コースに参加したとき、瞑想中ほとんど1分おきに咳をする外人がいて、わたしは先生に「瞑想にならないから何とかしてください」と話しました。そうしたら逆に、「それはあなたの問題です」と言われてしまいました。「相手は病人、そんな人にいちいち腹を立てていてどうする」のです、って。

あまり納得はできませんでしたが、先生に話したら少し気分が落ち着き、つぎの瞑想の時間から、相手の立場に立ってものを考えることができるようになりました。つらいだろうけど頑張れよ、せっかく京都まで 瞑想に来たんじゃないか。風邪もすぐ治るだろうから、もうちょっとの辛抱だ。がんばれ!

なんと、カチンときた相手を応援しているのです。そのとき、すべてが自分の受け取り方の問題なのだ、ということを教えられました。なんてったって、そこに自分がいなければ、腹が立つことさえないのですから。(^-^)

与党大敗
きのう参院選が行われ、おおかたの予想通り、民主党が大躍進し、与党が大敗した。強行採決や大臣の失言の連続、金銭疑惑、年金泥棒など、与党の敗因はたくさんある。こういうのを見ていると、われわれがカチンと来るのは、ぜんぶが自分の心の受け取り方、とばかりは言えないような気もする。

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2007.07.20

しあわせ

きのう、ある人の日記にコメントをしたことをもう一度ここに書いてみよう。
ノーベル賞をもらったサミュエルソンの名著『経済学』に、つぎのような方程式が載っている。ハピネス、つまり幸福とは、物質的供給を欲望で割ったものに等しいというのである。これによると、より幸福になるためには、分子の物質的供給が増えるか、分母の欲望を減らすかのどちらか、あるいはその両方が叶えばいい、ということになる。かなり荒っぽい方程式ではあるが、真実をついていると思う。

              Material Supply
Happiness  =   ─────────
                                  Desire

これを日本語に置き換えてみよう。幸福には愛情なども含まれるから、物質的供給だけでなく精神的供給も入れて、仮に「供給できるもの」としてみる。すると「しあわせ」とは、物や愛情をたくさん得られること、あるいは、欲望を少なくすること、となる。分母を小さくするか、分子を大きくするしかないのである。

             供給できるもの(有限)
しあわせ
  =  ──────────
                                   欲 望

戦後は何もなかったから、少しでも何か手に入ると喜べた、嬉しかった。新しい自転車を買ってもらったら、宝物のように大切にした。電話がついたときはわくわくした。冷蔵庫が来たときも興奮した。テレビが来て、大いにはしゃいだ。それに色がついて息を呑んだ。車を買って、自分が金持ちになったように思った。とにかく、新しいものが手に入るたび幸福感を味わった。

ところが、物質的供給にしろ精神的供給にしろ有限である。逆に、欲望のほうときたら、ほとんど無限なのだから始末がわるい。望みのものを手に入れても、しばらくすると、もっといいものが欲しくなる。そこで満足して止まるということがない。

仏教をはじめ、いろいろな宗教で「足るを知れ」と教える。「少しのことでも感謝しなさい」と畳みかける。感謝は満足につながり、欲望を抑えるからである。極端な話、無限のしあわせを得るには、欲望をゼロにすればいいのだ。瞑想を体験した人なら分かるだろう。深い瞑想に入って、欲望や執着から解放されると、そのとき静謐で深奥な無限の喜びを感ずることがある。

欲望をゼロにしたら進歩がないという人もいる。だが、進歩ってなんだろう。進歩が自然を破壊し、地球温暖化を招き、人類の命までおびやかしている。もう、ここら辺で心の底から「足るを知る」べきなのではないだろうか。

足るを知れば
いつでも
どこでも
だれでも
幸せになれる

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2007.06.15

心の掃除

昼休みに治療室のあるビルの階段掃除をした。京子が箒で掃いて、そのあと、わたしが掃除機をかけた。そのため用に10m以上もある長いコードも用意してある。床に滑り止めの模様が入っているので箒だけでは埃が取りきれないのだ。

それから、こんどはモップで床を拭いた。暑いので、流れる汗をぬぐいながら頑張った。あまり掃除をしていなかったので、そのぶんだけ余計にきれいになったように見える。ビルの管理費は払っているのだが、階段掃除は借り主がやることになっているらしい。ま、いい食後の運動になったと思えば、ちょいと儲けた感じである。ものは考えようだ。

どこでもそうだが、ほっておくと知らないうちに埃がいっぱい溜まってしまう。心も同じようなものだと思う。絶えず、浄化の努力をしていかないと汚れてしまう。

たしか、天理教では八つの埃というのを挙げている。おしい、ほしい、にくい、かわいい、 うらみ、はらだち、欲、高慢。こういう心を神様は嫌うという。かわいいというのは自分を過度にかわいがるということ。考えてみると、人生というのはどれだけ心の掃除をできるか、ということかもしれない。

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2007.02.19

理解するということ

自分が
その人の立場に立ったら
そうせざるを
えなかった
のかもしれない

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2006.09.28

不満と感謝

患者さんをみていると、いや患者さんだけでなく一般の人をみていると、絶えず不平不満を訴える人がいる。話すことが文句ばっかり、ぜんぶ否定的なので聞いているほうも厭になる。そうかと思うと、にこにこと笑顔を絶やさず、いつも感謝の言葉を口にしている人がいる。ものは考えようだが、どちらが幸せであるかは明らかであろう。

不満の多い人は病気がちになり、不満の少ない人は健康になる、と言っていいと思う。なぜなら、不平不満の多い人は心もからだもどこか緊張ぎみになる。不満のある人の顔を漫画で描くとすれば、眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた顔になる。眉間が緊張し、口元も何か言いたそうに緊張しているからだ。不平不満がなく感謝の心に満ちている人は、おおむね笑顔でにこにこしており、顔もどちらかというと緩んでいる。漫画で描けば恵比須さまのような顔になるだろう。

医学的にみても、不満があると筋肉は緊張する。トイレに行きたいのに我慢すれば緊張して足踏をしたくなる。腹が減ってくれば、やはり緊張してイライラする。逆に、トイレを済ましたあとはすっきりしてホッとする。腹いっぱい食べたときは満足して一休みしたくなる。精神的にも同じようなことが言える。腹が立ったり、怖い目にあったり、悲しい目にあったりすれば、からだが緊張する。思わず肩に力が入る。ところが不満がないときは、ゆったりと構えていることができる。感謝の心でいっぱいの人の顔は、満ち足りて緊張がない。

筋肉が緊張すると血管が圧迫され、どうしても血行が悪くなる。血行が悪くなれば、酸素も栄養も吸収しにくくなるし、老廃物を排除する機能も落ちる。その緊張が長く続けば病気になりやすくなる。筋肉が緩んでいれば血管がひろがり、血行がよくなる。血行がよくなれば、新鮮な酸素や栄養がゆきわたり、老廃物も排除される。

不満は緊張を生み、緊張は血行障害を起こし、病気になりやすくなる。
感謝は不満のない心だから、緊張がなくなり、血行がよくなり、健康になる。

このメカニズムを頭に入れて、できるだけものごとを良く考える癖をつけるといいだろう。なんでも「ありがたい」「よかった」で暮らしてゆくとよい。たとえ悪いことに出くわしたとしても「このぐらいで済んでよかった」「ああ、いい勉強をさせてもらった」「こういうこともあるのか」ぐらいに考えたらいい。

あとは心の平静さを失わなければ、そこにはつねに最善の選択肢が見つかるはずだ。まずは、不平不満を言っている自分に気づき、それをやめ、感謝のことばに置き換える練習をするとよいだろう。もっとも緊張と弛緩は適当にバランスが取れているといい。緊張しっぱなしでは病気になるが、緩みっぱなしではボケてしまう。適度の善意の緊張はおすすめである。

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2006.09.11

9.11

9.11テロからもう5年もたつそうだ。夜の十時ごろ、旅客機がとつぜん世界貿易センタービルに突っ込むのをテレビ画面で見たときはひどくショックを受けた。ウソだろうと思った。そうしたら、もう一機が隣のビルに突っ込んだ。それで、これは映画じゃない。いま現実に起こってることだとさとった。えらいことが起こったものだ。テレビ画面に釘付けになり、何度も繰り返される衝突の画面を食い入るように見ていたことを思い出す。恐ろしい日だった。

イスラム原理主義の犯行らしいが、いまだに首謀者ビン・ラーデンは捕まっていない。彼らのテロの多くは自爆テロだから手がつけられない。最初から自分が死ぬ気でやってくるので、ほとんど防ぎようがない。自分の命を捨ててまでも、思いを遂げたいと思っているのだ。テロは弱者の取れる唯一の手段なのである。

9.11の犠牲者は約3,000人だが、その後の塵肺などで苦しむ人は10,000人を超えるという。ブッシュ大統領は「対テロ戦争宣言」をしたが、米兵は死ぬ気で戦うほど強い信念はない。最初から死ぬ気でいる相手と戦うには分が悪い。欧米中心の文明がアジア、とくに中国中心にシフトしていく傾向はとまらないだろう。

やる方は自分が死んで
天国へ行くつもりだから
やられるほうはたまらない
9.11テロ
もう五年目

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2006.08.03

生きて死ぬ智慧(2)

sakuraさんの質問に答えることが難しいので、本文の一部と「あとがき」の後半部分をここに引用させてもらいますね。〔原本:柳澤桂子著「生きて死ぬ智慧―心訳・般若心経」、小学館〕

お聞きなさい
私たちは 広大な宇宙のなかに
存在します
宇宙では
形という固定したものはありません
宇宙は粒子に満ちています
粒子は自由に動き回って形を変えて
おたがいの関係の
安定したところで静止します

お聞きなさい
形のあるもの
いいかえれば物質的存在を
私たちは現象としてとらえているのですが
現象というものは
時々刻々変化するものであって
変化しない実体というものはありません
実体がないからこそ 形をつくれるのです
実体がなくて 変化するからこそ
物質であることができるのです
(p6-7)

「あとがき」より(p43-44)

さて、「般若心経」について、どうしてこのような現代語訳が出てくるかといいますと、私は次のように考えました。これは私の解釈であって、絶対に正しいというものではありません。みなさんにはみなさんの解釈があるのだと思います。

私は、釈迦という人はものすごい天才で、真理を見抜いたと思っています。ほかの宗教もおなじですが、偉大な宗教というものは、ものを一元的に見るということを述べているのです。「般若心経」もおなじです。

私たちは生れ落ちるとすぐ、母親の乳首を探します。お母さんのお腹の上に乗せてやるとずれ上がってきて、ちゃんと乳首に到達します。また、生まれたときに最初に世話をしてくれた人になつきます。その人が見えなかったり、声が聞こえないと泣きわめきます。このように、生れ落ちた時点ですでに、ものを自己と他者というふうに振る舞います。これは本能として脳の中に記憶されていることで、赤ちゃんが考えてやっていることではありません。

けれどもこの傾向はどんどん強くなり、私たちは、自己と他者、自分と他のものという二元的な考え方に深入りしていきます。元来、自分と対象物という見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になります。自分のまわりにはいろいろな物があり、いろいろな人がいます。

ところが一元的に見たらどうでしょう。二元的なものの見方になれてしまった人には、一元的にものを見ることはたいへんむずかしいのです。でも私たちは、科学の進歩のおかげで、物事の本質をお釈迦さまより少しはよく教え込まれています。

私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかもしれません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元論的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。

あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子も濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。

このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることができるようになります。

これがお釈迦さまの悟られたことであると私は思います。もちろん、お釈迦さまが原子を考えておられたとは思いませんが、ものごとの本質を見抜いておられたと思います。
現代科学に照らしても、釈尊がいかに真実を見通していたかということは、驚くべきことであると思います。

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2006.08.02

生きて死ぬ智慧

最近、早く寝るので朝4時とか5時に目が覚めてしまう。早寝早起きになった。けさはラジオ深夜便で、柳澤桂子さんの話を聞いた。柳澤さんは生命科学の分野の第一人者で30冊以上の本を書いているが、原因不明の痛みで長いあいだ苦しんでおられる。

柳澤さんは『生きて死ぬ智慧ー心訳・般若心経』を、たった二日でぜんぶ現代語に翻訳してしまったそうだ。宇宙が原子や粒子でできているということがわかると、般若心経の内容が理解しやすいという。わたしも粒子でできているし、宇宙も粒子でできていて、わたしと宇宙は別々であって別々でない。分離できない。エネルギーのさまざまな状態によって粒子は交流しあい、また現象化したりする。いわば、一元論的な見方でものを見ることが正しいのだという。

柳澤さんは、お釈迦様がギリシャの原子(atom)という考えを知っていたのではないかといっている。そうかもしれないが、われわれのようにヴィパッサナー瞑想法を体験しているものから言わせてもらえば、ブッダは理論でなく体験的にからだが微粒子からできていることを、エネルギーからできていることを知ったのだと思う。理屈抜きにそれを体験したのだと思う。理屈抜きに空くうを体験しているのだ。

朝は30分ぐらい歩いている。それから、草取りや掃除などをしている。高めだった血圧も下がってきた。早起きは三文の得というが、いろいろ得るものが多い。

早朝歩き一ヶ月
かくじつに
血圧が下がってきた
やはり人間は
動くべき物

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2006.07.08

感謝、感謝

人間は不満が多い。ものの無い時代ならともかく、ものが豊かになっているのに、人間は不満が多い。むしろ、ものの無い時代のほうが心が豊かだったかもしれない。ものを大切にしたし、足りないものは貸し借りをしたりして助け合った。子供のころ自分の自転車なんか宝物のように手入れをしたし、パンクなんかも自分でなおした。つぎはぎだらけのズボンも平気ではいた。

いまはものが豊かになったぶん、心が貧しくなってしまったように思える。簡単に手に入るから、ものを大切にしない。放置自転車が山と積まれている。コンビニが開いているから、隣近所でものを貸し借りするということもない。お金がなくなったら、消費者金融がずらりと並んで口をあけて待っている。

蛇口をひねれば水も出るし、お湯も出る。スイッチを押せばガスがつき、お湯が沸けばピーッと知らせる。エアコンはあるし、パソコン、リモコンもある。テレビでは外国のサッカーをライブで見ることができる。電話だってケータイだ。それも写真が撮れるし、テレビも見られるし、国際電話だってかけられる。

それでも、幸せそうな人の顔を見ることは少ない。数十年前の数十倍は豊かになっているのにである。自殺者は年間3万人をはるかに越えているという。一日に100人近くが自殺している。これはもう、どう考えてもまともじゃない。

人間は不満が多い。だから幸せになれないのだ。生理学的に考えると、不満は緊張を生む。トイレに行きたくなったり、お腹がすいてくると、なんとなくイライラしてくる。相手の意見がおかしいと反論したくなり、緊張がたかまる。腹が立つ。このように肉体的にも精神的にも不満は緊張を生むのである。

心身が緊張するということは、とりもなおさず筋肉が収縮することである。筋肉が収縮すると、とうぜん血管が圧迫され、血行がわるくなる。血行がわるくなると、酸素や栄養の補給ができなくなり、老廃物を排除することもスムースに行かない。この悪循環がつづくと大きなストレスとなり、やがて病気になる。

感謝することは山ほどある
人間は不満が多い。しかし、その気になれば感謝することもたくさん見つかる。「ありがたいな」「よかったな」「しあわせだな」と思えることも無限に見つけ出すことができるはずである。朝ごはんがおいしく食べられたら、ありがたいではないか。お通じがあったら、そのことだけでも十分ありがたい。なかったら大変だ。目が見えるということ、耳が聞こえるということ、ただもう生きているということ、どれもが奇跡的にありがたいことなのだ。わざわざそれらを失ってみなくても、そのありがたさを感ずることはできるだろう。

満足は血行をよくする
基本的に、満足するとからだの緊張がほぐれる。筋肉がゆるむのである。おいしいものを腹いっぱい食べたら、満足して腹を立てる気にもならない。トイレに行ってきたあとは、すっきりして気持ちがいい。満足すると筋肉がゆるむ。筋肉がゆるめば血管が広がり、血行がよくなる。血行がよくなれば、新鮮な酸素や栄養がどんどん補給され、老廃物が排除される。そうすれば体調がよくなり、健康になる。

ありがたい、ありがたい
人間は不満が多い。しかし、その気になれば「ありがたくてしょうがない」こと、大いに満足できることもほとんど無限にある。不満を抱えて病気になるより、「ありがたい」と感謝して健康になるほうがいい。わたしは布団に入ったら、その日にあった「いいこと」を少なくとも3つ思い出してから眠るようにしている。ときには、ありがたくて、ありがたくて、涙が流れることもある。これは嘘ではない。

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2006.05.28

しあわせ

サミュエルソンの『経済学』に、こんな数式が載っている。

Happness_1

しあわせは、欲望を分母に物質的供給を分子にした分数式で表されるというのだ。ひとの幸福は、欲望と物質的供給との関係で決まる。もちろん、物質的供給だけでなく精神的供給も入るだろうが、極端に単純化してしまえばこういう式になる。欲望が大きくて供給が追いつかないとき、ひとは不満になり、不幸にになる。欲望が小さくて供給がたっぷりあるとき、ひとは満足し、幸福になる。

物質的供給にしても、精神的供給にしても、与えられるものには限度がある。ところが人間の欲望にはきりがない。欲望が満たされた瞬間、つぎの欲望が顔を出す。だから、欲望が強いかぎり、ひとは永遠に満たされることはないのである。現代は物質的には恐ろしく豊かで、便利になっている。テレビ、ケータイ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、IHレンジ、コンピュータ、自動車、飛行機・・・。スーパーに並んでいる食品も、頭がクラクラするくらい多彩である。ほとんど、わたしの子供の頃には縁のなかったものばかりだ。それで、ひとの心は昔より幸せになっただろうか。

袴田住職は、自分の意思で欲望を減らすことが大切だという。よけいはものを手放すといいという。不便さを楽しむのだ。苦しみのとなりに大きな喜びがあるともいう。新幹線は速いけど、速すぎて景色が飛んでしまう。そこへいくと、各駅停車はたくさん止まってくれる。ゆっくり景色が楽しめる。速いのもいいが、遅いのもまたいいのである。腹6分目ぐらいにしておくと、何をたべてもうまい。サミュエルソンの式でいうと、分母の欲望を小さくするほど幸福が大きくなるのである。

不満が
沸いてきたとき
徳川家康だって
こんな暮らしはできなかった
と思ってみる

こんなに豊かに
こんなに便利に
なったのに
自殺者3万人
問題は心なのだ

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2006.05.27

心といのちを考える

ラジオ深夜便「こころの時代」は、秋田県藤里町の住職である袴田俊英さんの「心といのちを考える」という話だった。藤里町といえば、先日小学生ふたりが相次いで殺されるという事件が起こったところだ。

藤里町には三度行ったことがある。叔母の実家が藤里町藤琴なので、夏休みや春休みに遊びに行ったのだ。人情のあつい素敵な町だ。営林署があるので奥羽本線の駅のある二ツ井町より発展している。藤琴川でカジカを突いたことや、白神山地の麓までハイキングをしたことなどを懐かしく思い出す。1週間もいれば、知らずに秋田弁を口にしていたものだ。そんなところに悲しい事件が起きたことを残念に思っている。

袴田さんの話はとてもよかった。なんでも秋田県は自殺率が日本一なのだそうだ。それで自殺を減らそうといろんな運動をされているという。自殺の原因はさまざまだが、「死んじゃいけない、死んじゃいけない」と声をかける人がいないことも、そのひとつだという。そのとき落語の「文七もっとい」という話を取り上げていた。

不便さを楽しもう。苦しみのとなりに幸せが寄り添っている。この二つの話が印象に残っている。毎日3時半に起きて禅の修行をしていた。あるとき、大好物のアンパンと牛乳が出たという。おいしくて涙が出た。それは今までに味わったことのない最高の旨さだった。以後、宴会で山海の珍味を出されることが多くなったが、あの味にはとうていかなわない。現代人は、恵まれすぎて逆に不幸になってしまったのだ。

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2006.05.12

今を生きる

Asakusa01

東京東本願寺の近くのお寺の掲示板に書かれていた言葉。
まったくその通りです、としか言いようがない。

人間は
あることないこと
考えてばかりいる
そのときたしかに
いまここには居ない

生きていることは
ほとんど
奇跡なのだ
ありがたい
ありがたすぎる

植物も動物も
山も川も
月も星も
ことばも心も
みんな生きている

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2006.04.20

久米の仙人

春に三日の晴れ無し、といわれるように、天候がくるくる変わる。きょうは大荒れだ。台風のように横殴りの雨が降り、一部には雷や雹ひょうの注意も出た。そうかと思うとカッと日が差したりする。

瞑想は心の平静さをはぐくむ行だが、これでいいということはない。人間の心のなかの汚濁はそう簡単には浄化できないのだ。心が落ち着いてきたなと思っても、ちょっと油断すると執着や欲望が顔を出す。日々これ修行である。今昔物語や徒然草に、「久米の仙人」の話が出てくるが、このことを諭している。

むかし、大和吉野の竜門寺に久米という男がこもって修行をしていた。やがて仙人になったが、飛行中に吉野川で衣を洗う若い女のすねを見て心がみだれ、神通力を失って墜落してしまった。しばらく俗世に暮らしたが再び修行をつみ、高市(明日香)遷都のときに都造りの材木を神通力を使って運び、そのほうびとして30町をもらい、久米寺を建てたという。

仙人になっても色香に惑わされるのだから、油断ならない。まして昨今は、脚のすねどころか、太ももや胸元をあらわにしている女性が少なくないので、心の平静さを保つのは並大抵ではない。心がみだれたとき、少なくともそのことを気づくだけの心の余裕を持っていたいものだ。

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2005.10.06

ヴィパッサナー瞑想法

ヴィパッサナー瞑想法については、以前、ウイリアム・ハート著"The Art of Living" の翻訳をさせてもらった。これは春秋社から『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』というタイトルで出版されている。また、瞑想コースに参加したときの様子を体験記としてまとめ、陽気堂はり治療室のホームページに公開している。

ときどき、本や体験記を読んで10日間コースに参加したという方がメールをくれたり、ホームページの掲示板に書き込みをしてくれる。いまは直接ヴィパッサナーに奉仕できない状態だが、こういう形で瞑想者が増えていくのをみるのは嬉しい。きのうも掲示板にこんな書き込みがあった。

こんにちは、はじめまして、
私は、この前の9下旬からのヴィパッサナー10日間コースを始めて体験させていただいた者です。私の場合、知人友人の紹介ではなく、偶然ネットでヴィパッサナー協会のHPを知ったので、興味はあったのですが同時に胡散臭い気持ちが強くて、一年ぐらい放置していたのですが、今年どうしても行きたくなり、体験者の情報を検索しているうちに、ここのHPを見つけました。こちらの体験談のお陰で、コースを受ける決心がつきました。また、翻訳しておられるヴィパサナーの本も参加前に読むことができ、とても助けになりました。参加してみて、本当に本当によかったです。ありがとうございます。by naovo

さっそく返事を書いた。

naovoさん、はじめまして、
書き込み、ありがとうございます。
わたしの「ヴィパッサナー瞑想体験記」を読んでいただいてもらったことを嬉しく思います。わたしはドイツ人の友人の紹介で行きましたが、まったく予備知識がなかったのでずいぶん戸惑いました。どうやって逃げ出そうかとばかり考えていましたよ。(^-^)

でも、結果的には人生を大きく変えるような体験を得ることができました。表面的な暮らしはあまり変わっていないのですが、心が落ち着き、目先のことに一喜一憂することがなくなり、ゆったりと生きることができるようになりました。結局はお金という人も多いけれど、結局はこころですからね。何度かコースをとったら、ぜひ奉仕をされることをおすすめします。ひとのためでなく、自分のためにです。

きょうの昼休みにも、ヴィパッサナーの瞑想をしている人がみえた。『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』を読んで10日間コースをとった人で、タイやミャンマーでも瞑想コースに参加してきたという。わたしが本を書いたわけではなく、ただ翻訳をさせてもらっただけだが、それでも瞑想の輪がひろがっていくのをみるのは実に嬉しい。

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2005.03.01

メタセコイア

metasequoia 
メタセコイア:別名アケボノスギ(生田緑地)

   気がつけば
   いつも
   どこにいても
   たくさんの人と
   つながっている

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2005.02.16

隻手の声

霧雨が降っている。畑の向こうにシメが降りている。なにやら、つついている。買い物に出かけようかと思ったが、ゆうべ強い地震があったので二の足を踏んだ。

   sime04 シメ

録画しておいたビデオを見た。境野勝悟(さかいのかつのり)さんの「禅の人間学」という話だ。禅をすすめられて、何も知らずに三島のお寺で座禅をしたときの話がおもしろい。寒い12月の座禅で、夜11時に寝て、午前3時に起こされる。辛かったが、最後の日に老僧から、「ああ、ご苦労さんなこったなあ」と手を合わして労ってもらって感動した。そこで、禅とは宗教ではなく、自己の修練であることを学んだという。

禅僧を雲水と呼ぶが、それは彼らが雲の如く水の如く、自分を変えて、自分を捨てて、苦難を通り抜けてゆく姿を目指しているからだ。一生懸命に生き、その結果にはこだわらないというのである。

白隠禅師の「隻手の声を聞け」という公案を与えられ、一年間も悩んだという話もおもしろい。両手で叩けば音が出るが、隻手(せきしゅ=片手)では音が出るわけがない。でも、その音を聞けと言われれば、いったい何のことだろうと考えてしまう。その質問にとらわれてしまう。

   白隠の隻手の声を聞くよりも両手を打って商いをせん

おさんという婆さんはこう答えている。そんなことはどうでもいい、本来の仕事に精を出したらいいというのである。それを聞いた白隠禅師の歌はこうだ。

   商いが両手叩いてなるならば隻手の音は聞くにおよばず

境野さんは頭であれこれ悩んだあげく、「隻手の音が出ても出なくても、そんなことはどうでもいいことだ」と悟るのに、一年もかかったと笑っていた。

   桃紅李白薔薇紫 問起春風總不知

   桃は紅く、李は白く、バラは紫、これを春風に問えば知らず

桃の花があかく、すももの花が白く、バラの花が紫色に咲いている。その理由を春風にたずねたが、まったく分からないという。それは、おのずとそうなっているのである。自然は、自ずから然り、おのずからそうなっている。

もちろん、それは「なにもしなくていい」という意味ではない。それぞれが明るく精一杯生きてゆけば、おのずから成るように成る。大切なことは執着を持たないということなのだ。所詮、諸行無常なのだから。そういえば、鳥たちも一生懸命、生きている。

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2005.01.16

ヴィパッサナー瞑想法

お正月のヴィパッサナー瞑想コースに参加した女性がみえた。12月22日から1月3日まで連続して休みをとり、京都でまる10日間座禅をしてきたのだ。脊柱の側湾があるので心配していたが、背中の痛みも出ず、無事に座れたようである。「本当に行ってよかったです」と繰り返すのを聞いて、こちらも嬉しくなった。お正月休みということもあって、80人近くが参加したそうだ。その人たちが全員無言で瞑想しているのがなんだか不思議でしたという。

コース中は外部と接触できないので、コースが終わるまでスマトラ沖の大地震のことも知らなかったそうだ。だが12月25日ごろ、大きな津波の夢を見たという。なんでこんな夢を見るのかと思っていたら、コースが終わって、スマトラ沖で大津波が起きていたことを知って驚いたという。あの地震は巨大だったから磁気の乱れも大きかったにちがいない。だから、瞑想者のなかにそれを感知した人がいたとしても不思議はない。

以前、お世話になっていた神道の先生も、大きな災害がある前に、テレビ画面に雲がかかったり、夢で前知らせがあったりすると言っていた。心が澄みきっているとき、人は思いもよらぬ能力を発揮することがある。日常生活では、心が乱れることが多い。だが、そういう自分を少し離れたところから眺め、心の平静さを保ち、おだやかに暮らしてゆきたいものである。

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