2012.03.18

新しい山門

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寿福寺の新しい山門

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仙谷霊山の名前が彫ってある

春のお彼岸なので、日曜午後は寿福寺にお墓参りに行った。ときどき小雨がぱらついた。寿福寺の山門が新しくなった。銅葺きの屋根が光っている。柱や梁も新しくなった。これで本堂にふさわしい山門になったというわけだ。一体どれほどの金額がかかったのだろう、などと考えてしまう。銅葺きの屋根はやがて風雨に打たれて緑青がわき、独特の風合いを持つようになるだろう。そうなれば銅ははがねのように硬く丈夫になる。

伽藍や山門は大金がかかる。ブッダはそういうものにお金をかけろと言っただろうか。修行僧の三衣一鉢(さんねいっぱつ)の精神はどうなっているのやら。

ブッダの
教えは
少欲知足
はて
さて

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ハンドルネーム "ripple"

インターネットでは長いこと ripple(リプル) というハンドルネームを使っている。最近また、どういう意味かと聞かれたが、さざなみ、小波という意味だ。深い瞑想に入ったときに、からだじゅうが静電気の被膜に包まれたような感覚を味わうことがある。からだじゅうが細かく泡立つような感覚だ。その微細なさざなみのような感覚が、寄せては返す。そこで、さざなみの英語である ripple をハンドルネームにした。英語にしたのは、ネット上の登録などはアルファベットを指定してくることが多いからだ。

Goenka瞑想というと、どんな瞑想かと訊かれる。わたしがやっているのはヴィパッサナー瞑想法である。ヴィパッサナー瞑想法にもいろいろあるが、日本ヴィパッサナー協会が京都と千葉で行っているもので、インドのゴエンカ氏が指導している瞑想法である。くわしいことは『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』という本に書いてある。この本は、ウイリアム・ハート著の "The Art of Living" の日本語訳である。

ヴィパッサナー瞑想法は、もともとブッダが行っていた瞑想法を系統立てたもので、宗教色は一切ない。自分の呼吸とからだの感覚に気づき、どんなときでも心の平静さを保つ修行である。それによって、よりよい人生を送ろうというのである。連続して10日間も休みをとるのは大変かもしれないが、長い一生からみればほんの一瞬である。そのほんの一瞬に人生を豊かにするかけがえのない体験ができるとなれば、これをやらない手はないだろう。

→日本ヴィパッサナー協会

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2012.03.01

寒い通夜

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祭壇の花

きのうは近所のお通夜があり、京子と二人で受付けに立った。故人は86歳の女性で、生前われわれもいろいろお世話になったので、お手伝いができて嬉しい。親戚中心のこじんまりしたお通夜だった。式場は二階だが受け付けは一階で天井が高く、暖房があまりきかなかった。外は雪が残り、弔問客が来るたびに冷気が入るので、だんだん腰が痛くなった。お清めの席ではお茶を何杯もごちそうになって、からだを温めた。

お坊さんのお経がすばらしかった。お経がというより、声がよかった。まるでオペラを聴いているような気持ちになったほどだ。それと、浄土真宗ではお返しものを渡すさい、「お清め塩」というものを出さないのだそうだ。かわりに会葬礼状にパンフレットが折り畳んで挟んであった。死者は不浄なものではない。だから、お塩で清める必要はないということらしい。昔はドライアイスも霊安室もなかったから、遺体はすぐ腐り始めたのだろう。そこで「お清め塩」というのを使うようになったのに違いない。真宗の考えももっともではある。

時が来れば
みんな死ぬ
偉い人も
そうでない人も
あなたも、私も

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2012.02.28

稲荷講(三の午)

きのうは稲荷講(いなりこう)の集まりがあり、うちは当番に当たっていたので、午後は治療室を休んだ。稲荷講は毎年初午(はつうま)の日の行うことになっている。ことしの初午は2月3日だったが、立春のあとの午の日ということなので2月15日になる。ところが、この日が丙午(ひのえうま)ときた。丙午は火事が起きやすいとかいって縁起がわるいので、つぎの三の午の日に稲荷講を開くことになったのだ。ネットで調べると、2月に入って最初の午の日が初午だから、2月3日にお祭りを開くところが多いようだ。近くの宿河原では二の午である2月15日にやったという。うちのほうは、丁寧といえば丁寧だ。

Inari_2午前中、お稲荷様を祀っている家を訪問し、お神酒をお供えしてまわった。それから会館を掃除し、机を並べ、「いなげや」に買い物に行った。刺身や天ぷらは別に注文してある。講中は34人だが、1000円会費なので、予算の範囲内で買い物をするのは工夫がいる。片づけがらくになるように、紙コップ、紙皿、割りばしなどもそろえた。2時が稲荷講の開始時間である。ところが、どうしたことか料理が来ない。開会すこし前に催促の電話をすると、様子がおかしい。すっかり忘れているのだ。「30分、時間をください」と、平謝りだ。

定刻の午後2時に稲荷講を始める。わたしが一言あいさつをし、会計報告をする。それから来年度の初午の当番をクジで選ぶ。それから、榛名講の当番もクジで選ぶ。このくじ引きをゆっくりやったので、ちょうど宴会に入るときに刺身が届いた。「いま天ぷらを揚げていますので、もう少しお待ちください」と仕出し屋さん。お詫びにと、酢の物などをくれた。やがて、天ぷらと煮物が届いた。みんなは何事もなかったように楽しくおしゃべりをしている。ま、長いことやっていれば、こんなこともあるものだ。

ひとつには、ヴィパッサナー瞑想をやっているので、あわてなくてすんだのだと思う。何が起きても、心の平静さをある程度保つことができるようになっている。

コップに半分の水が入っているとき、楽天家は「まだ半分ある」と思い、心配性は「もう半分しかない」と思う。そんなたとえ話をすることがある。悲観的に生きるより楽天的に生きたほうが得だというわけだ。ヴィパッサナー瞑想者はこれをどう見るかというと、「コップに水が半分はいっている」と、その事実を淡々と受け入れるのである。「まだ」でもなく、「もう」でもない。事実を事実として見つめるのである。それが心を平静にしてものを見るということなのだ。

榛名講のクジでは、わたしも当たった。他の2人といっしょに来月、榛名山へ代参に行くことになった。神様詣りだ。ありがたいことである。

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2012.02.20

ヴィパッサナーの瞑想

Meditator4毎朝1時間、ヴィパッサナー瞑想をしている。ま、坐禅といってもいいが、それほど堅苦しいものではない。夏は4時半ごろに起きていたが、最近は5時から6時ごろになってしまう。寒いのでエアコンを入れるが節電もしたいところだから。瞑想はもう何年もやっていて習慣になっているから、坐らないと一日がなにか抜けたような感じになる。座らないではいられないのである。

タイマーをセットし、7センチほどの厚さのミニ座布団を敷き、軽くあぐらをかいて坐る。毛布を肩から掛けて、電気を消して、目を閉じる。からだの中心線を見てまっすぐになっているかを確かめる。それから呼吸に意識をおく。いわゆるアナパナ瞑想を始める。

アナパナ
自分の吐く息、吸う息を観察する。吐く息は温かく、やや湿っており、鼻の孔のすぐ下あたりに当たる。吸う息は冷たく、鼻の奥の方に当たる感じがする。鼻の孔の下の皮膚のところに意識をおいていると、くすぐったい感じや、むずむずした感じがする。細い毛がなびくような感覚があったり、毛細血管のかすかな拍動を感じたりする。雑念がわかなければ、いろんな感覚が観察できる。雑念がわいたら意識的に強めの呼吸をする。これは短時間でも、またどんなところでも手軽にできる瞑想である。

ヴィパッサナー
呼吸が落ち着いてきたら、ヴィパッサナー瞑想にすすむ。ヴィパッサナーとは「あるがままを観察する」という意味である。全身の感覚を見ていくのである。まず頭のてっぺんに意識をおく。ここは感覚が鈍い。頭のてっぺんにヒモをつけて上に持ち上げるようにして背筋を伸ばすと、その場所がよく意識できる。むずむずしたり、痒かったりすることもある。10円玉ぐらいの大きさで意識をおき、それを頭の前後左右にも移動してゆく。うまくいかないときは、頭に毛糸の帽子をかぶったようなつもりで、頭ぜんたいの感覚を感じ取ることもある。それからおでこ、眉毛、目玉などを感じ取っていく。左右同時に見ることもあれば、ひとつずつ見ていくこともある。さらに耳、鼻、頬、口と見ていく。首から上が終わると、そこが少し温かくなる。

肩や腕、肘、手のひらなども順々にどんな感じがあるか見てゆく。うまいこと感覚が感じられるときは、左右同時に見る。胸や腹、背中や腰も、同様に見てゆく。雑念が多いときは順番もめちゃくちゃになり、どこを感じ取っているかわからなくなるが、そんなときはからだ全体を感じ取ってもいい。お尻や足も一通り感覚をみてゆく。毎日やっているから、ぜんぶできなかったときは、翌日その続きをやったりすることもあるが、だいたいなんとか全身を観察する。不完全ながら、こうやって「今に居つづける」訓練をすると、心が落ち着く。いらいらすることが少なくなり、体調もいい。

ヴィパッサナー瞑想は、きちんとした指導者について教わるのがいい。できれば京都か千葉で10日間コースをとるのが望ましい。深いヴィパッサナー瞑想に入ると予期せぬことが起こることがあるからだ。

→日本ヴィパッサナー教会

宇宙を動かし
細胞を生かしている
大いなる力に
つながると
不安がなくなる

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2012.02.19

誰がために鐘はなる

Bell1録画しておいた映画「誰がために鐘は鳴る」を見た。ワールドプレミア版とかで、過去のものより20分ぐらい長いという。ヘミングウェイの長編小説を映画化したもので、ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが主演だ。1943年の作品というからかなり古い。私もまだ生まれていない。しかも総天然色だから、アメリカという国はすごい。そんな国に戦争をしかけたのだから、日本は常軌を逸していたというほかない。

イギリス人青年がスペインの民衆に共感してフランコのファシズム政権と闘うという筋書きだ。戦争という極限に生きる人々の姿が真に迫る。みんな命がけで生きている。自分は命がけで何かをしたことがあるだろうか、と思わず自問してしまう。

映画の原題はFor Whom the Bell Tolls だが、わたしはずっと
For Whom the Bell Rings だと思っていた。toll のほうが重い響きがある。

戦争は嫌だが
人間の極限の
生き方が出る
いのちについて
考えさせられる

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2012.02.18

千日回峰行2回満行

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酒井雄哉和尚(85歳)

日曜日の「こころの時代」は、比叡山の酒井和尚が「人生、これ修行」と題して、いろんな話をしていた。酒井和尚は、命がけの荒行として知られる比叡山の千日回峰行を2度満行している。史上3人目だそうだ。

千日回峰行は何度かドキュメンタリー番組で放映されたことがあり、はじめてそれを見たとき、私は度肝を抜かれた。夜中に30kmほど山の中を歩き、いろんなお堂にお経をあげて回るのだ。山だから下り坂はほとんど駆けおりる。その後も堂入りという断食、不眠不休でお経をあげながら歩き続けるなどの苦行を行う。死者も出ることがある荒行である。

千日回峰行を2度満行した後は、世界を“回峰”している。中国の五台山や慈覚大師の旧跡、バチカンやアッシジにまで足跡は及ぶ。仏門に入ったのは40歳。波乱の人生をたどったすえ、「山を歩かせてもらって仏様の知恵を学ばせてもらった。一日一生。生きていること自体が修行」と語る酒井さん。あたたかい大きなオーラを感じる。

千日回峰行を
二度満行した
酒井和尚は
こだわりを持たぬ
人である

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2011.09.01

友の急逝

きのうは友人のお通夜があって、西日暮里まで行った。同業の鍼灸師だ。もう5年ぐらい前に食道がんを宣告されたが、抗がん剤が効いてがんの方は治った様子だった。月曜日の朝、自宅でとつぜん亡くなったそうだ。死因は心不全としかわからない。年齢ははっきり知らなかったが、70歳だったという。対等に付き合ってくれたが、わたしより7つも年上だったのに驚いている。

Sinran葬儀は浄土真宗で行われた。浄土真宗では戒名をつけないらしく、俗名のまま位牌が立っていた。親鸞聖人の小さな屏風が飾られている。読経のあと10分ほど、導師の話があった。そのなかで導師は「理論と実際」のような話をしていた。理論でこうだからこうなると思っても、実際はその通りいかないものだ」というような話だった。

故人は大卒のエリートで非常に物知りだった。しかし金儲けは下手で、そっちのほうはかんばしくなかった。わたしも似たところがある。知識は豊富だが実際にそれを生かすのがうまくない。ただ淡々と生きている。導師はそれを見越したかのように、故人にふさわしい話をしていた。

実際、元気な彼がとつぜん死んでしまった。あしたは、来週は、来年は、ああしようこうしよう、ということがあっただろう。まさか突然死んでしまうとは夢にも思わなかっただろう。思ったとおりにいかない、思いもよらぬことが起こる、それが人生というものなのだ。

一日一日を今日が最後というようなつもりで生きなさい、と導師はいう。一日一日を大切に生きなさいということが、本当にあした何が起きるかわからない。そうだ、先月にも、3つ年上の友人が心筋梗塞で亡くなっている。

友人が
とつぜん死んだ
急逝は悲しいが
長患いも
らくではなかろう

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2011.03.04

あぶない

親切が
余計なお世話に
なったりするから
世の中
あぶない

明らかに
間違っていても
それを
指摘するのは
あぶない

ひとは
理性の動物
というよりも
はるかに
感情の動物

男は
プライドが高い
そこを
傷つけられると
牙を剥く

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2011.01.23

イラストレーターから尼僧へ

Karen
尼僧勝本華蓮さん(NHK・こころの時代)

教育テレビの「こころの時代」は毎回録画して見ている。聖書関係は草柳さん、仏教関係は金光さん、ときどきアナウンサーがインタヴュアになっている。録画したものはちょっと再生して、面白そうなものだけを見る。聖書や仏典の解釈のように難解のものはすぐ消去してしまう。どちらかという教えの実践に興味があるからだ。思えば五行歌との出会いもこの番組からだった。五行歌の考案者である草壁焔太先生がここで五行歌を紹介し、歌会の様子などを報じていたのに惹かれたのである。

きょうは「世間の中の出世間の道~イラストレーターから尼僧へ」というタイトルで勝本華蓮(かれん)さんがお話をされた。サラリーマンの家庭に生まれてイラストレーターになり、28歳で起業し、仕事も順調にのびていた。しかし忙しく働くだけの一生でいいのかという思いが強くなり、自分という存在を追求したくなった。そして会社を処分し、仏の道へ飛び込んだという異色の人物だ。現代仏教から初期仏教まで、ブッダの教えを体当たりで追求してきた彼女の言葉にはいちいち頷くものがあった。

勝本さんはお寺を持たない。マンションに住んで原初仏教の研究をしている。本を執筆したり、ときどきブッダの教えを話したりしている。それを自分の天職と考えておられるようだ。心をしゃんとさせるために尼僧の格好をしているが、ブッダの教えはどこにいても実践できるという。そこがいい。

再放送→ 1月31日(月)教育テレビ 午後2:00~3:00

これだ
と思ったら
飛びこんでみる
それも人生
なんとかなる

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