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2011.08.20

本地垂迹説

Dewa12

神仏習合の理論的裏付けをなすものが「本地垂迹説」といわれる。ほんじすいじゃくせつ。それは「日本の神は本地インドの仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れたものだとする神仏同体説」である。平安時代にはじまり、明治初期の神仏分離により衰えた。神道だけ、あるいは仏教だけでも諸派がたくさんあって分かりにくい上に、神仏混淆となるといっそうややこしくなる。その神を、その仏を、それぞれ信ずる者にのみ、神が仏が顕現するのであろうか。

わたしは毎朝1時間ほどヴィパッサナー瞑想を行っているが、これはブッダが実践した初期の修行法だといわれている。そこには神仏の名前も、死後の世界のこともいっさい出てこない。ただ呼吸に意識を置き、からだの感覚を見つめ、自分を客観的に観察してゆく。なんの宗教色もない。ヴィパッサナーの瞑想をおこなっていくと自然に心が落ち着いてくる。

神仏の教えを民衆に分かりやすく説こうとして、いろいろと神仏の名前をつけ、物語をつくったのだろうが、時がたつにつれてそれは複雑になり難解になってしまったようだ。一つの宗派に入って勉強すれば、それなりに辻褄のあった理論を会得することができるのだろうが、それでは別jの宗派のことがわからくなる。われわれはとりあえず大自然を支配する大いなる力を神と呼び、仏と呼び、神仏を敬い、謙虚に生きればいいのではないだろうか。星の運行をつかさどる力、細胞を制御する法則、そういうものの存在は否定できないのだから。

ほんらいは
大いなる
自然の力なのに
神仏となると
ややこしくなる

神の窓口は
そこここにある
伊勢にも
メッカにも
ガンジスにも


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